絵本から導くお経のこころ 福間玄猷氏(宝池山源光寺)

絵本から導くお経のこころ

ひろがりつながる言葉の力

ボンズナビ事務局が掲載寺院の中から気になるお坊さんをご紹介する、「お坊さんPickUp」。今回は「絵本のお坊さん」として幅広くご活躍されている、源光寺(広島県、浄土真宗本願寺派)住職の福間玄猷氏をご紹介します。

福間ご住職による絵本の読み語り

福間玄猷氏インタビュー

絵本のもつ言葉の力

ーー絵本の読み語りを始められたのは、ご長男がお生まれになられたのがきっかけとのことですが。

福間 そうですね。長男が生まれて、普通に読み聞かせをしていたのが延長して・・・。

ーー僧侶として絵本を用いた活動をしようと思われたのは?

福間 私が「絵本だな」と思ったのは、一つは「言葉に対する信頼感」ですね。

ーー「言葉に対する信頼感」とは?

福間 私達は当たり前に言葉を使っていますけど、日常の言葉って非常に薄っぺらい言葉だったり、嘘だったり、お上手やおべっかだったり、むしろ人を汚したり傷つけたりするわけです。その一方で私たちは「お経さま」の言葉もいただくわけですが、でも多くの場合、日常の言葉とお経さまの言葉というものが混ざってしまう。だからお経さまの言葉をいただいても、私自身もそうだったのですが、「そんな事あるはずないじゃないか」という感覚で聞いてしまう。

ーー私も同じく、その通りでした(汗)。

福間 なぜそういうことが起こるのかな、と思ってみると、たしかに人に対する信頼感や、人が発する言葉に対する信頼感もどんどん無くなっているし、その延長線上で仏さまの言葉と言われてもそれは聞けないだろうなと。ではそのお経さまに近い言葉があるのだろうか・・・と考えた時に、私は絵本だと思ったわけです。

絵本だと、今の子どもたちは幼稚園や保育所、小学校で小さな頃から読んでもらっているので、絵本に対する違和感はなく、むしろ信頼している。そういう絵本のもつ力、その絵本の中で出されている言葉の力があるわけで、それを提供していく中で「実はお経さまの言葉も大事な言葉なんだよ」という風につなげていきたいと考えているものですから、ご法事、お通夜などで子どもさんがおられる時には絵本を読ませてもらうんです。

ーー絵本に対する信頼感から、仏さまのお話へと導いていくという…。

福間 子どもさん自身は「ああ、絵本を読んでくれたお坊さんだ」と単なる思い出で始まるのですが、それをきっかけにチャンネルが出来ておくと、「またあのお坊さんが来たな、絵本を読んでもらおうかな」「じゃあそのお坊さんの話も聞いてみようかな」「その言葉は実はお経というものに基づいていたんだな」という風に自然に受け止めてもらえるのではないかな、と。そういう思いで取り組んでいます。

絵本の読み語りは「共同体験」

ーーやはり、仏教の教えに通ずるような絵本を選ばれるのですか?

福間 若干、偏っていますね(笑)。素晴らしいなと思う絵本は、じつはキリスト教系の香りがするものが多いです。「天使」や「お星さま」、「召されていく」とか「神様」とか、そういうフレーズが多いのですが、それはちょっと(笑)。バッチリ仏教というわけではないのですが、「支え合う」とか「命を大事にする」、「つながる」とか「老病死」であるとか、そういう香りのする絵本がどちらかというと多いかな。

ーー自分が知っている絵本もあるかな…?

福間 色々ありますよ。うちの子供に読んでいた定番の絵本もありますし…あのホットケーキの…。

ーー「しろくまちゃんシリーズ」ですね!ウチにもあります!(笑)

「こぐまちゃんのみずあそび」こぐま社

福間 そうそう、そういうのもあります(笑)。考えてみれば、絵本の読み語りというのは「共同体験」なんですよね。たとえば、しろくまちゃんの絵本の中で「ぴちゃぴちゃ」と水遊びをする場面があって、そんなの何が面白いのかと思っていたんだけど(笑)、つまり大人は理屈で考えてしまう。「その本にどういう意味があるのか」という意味づけで入るのですが、「ああ、そうではなかったんだ」と。「ぴちゃぴちゃ」ということを一緒に楽しむ。子どもにとって絵本というのはまさに体験でして、絵本を読むというよりも、お父さんやお母さんと「遊んだな」という体験から入るんですね、

ーーなるほど、子どもにとって絵本は「遊び=体験」なんだ。

「ああそうか、この体験を一緒にするということが大事だったんだ」ということに後から気づいたのですが、それがとても大きな発見で。「時間や体験を通じて積み重ねた信頼感によって、今度はその相手に対する信頼感が広がっていくのか」と。それは大変面白い発見でしたね。

ーーとても大事なことが、絵本を通して培われていくんですね。

福間 お坊さんはお経が最優先ですから、どうしてもお経のところから考えてしまうんだけど、私の場合はそれが邪魔をしていて、先入観が抜けずに「分からん、分からん」と思っていたんだけど、違う分野から探ってみたら「案外同じことを言ってるな」と。しかも分かりやすい。そういうことが、絵本だったりその他の色んな経験の中から実感できて、「結局同じだな」というところで僧侶として合点がいっている、そういう実感はありますね。

サマースクールで富士登山

ーーお寺ではサマースクールや子ども会も開催されていますが、富士山登山を三度完遂されたそうですね。

福間 これは私がやりたいと思って始めたことではなくて、サマースクールを始めてその評判が色々広がっていく中で、ご門徒さんが「じゃあ連れて行ってあげよう」と。三次には高谷山という霧の海が見える山があって、あそこが最初でした。連れてってあげるよと言われても、私には経験もないし、私はただ子どもたちの後ろについて登るだけで(笑)、それが一番最初でした。「ああ、何とかできるもんだな」と。そうしたら今度は三瓶山、大山、高谷山で富士山と。

ーーだんだん高い山へと(笑)。

福間 私はもともと人が苦手でして。人には付いて歩くけど先頭は嫌いだし、人前でしゃべるのは嫌だし、体力も自信がない中で大きくなったんだけれども、そのサマースクールがきっかけで子どもたちにも関われるようになったし、それがきっかけで色んな人達のアイディアをいただくことが出来て、それに乗っかってたら、たまたま富士山だったというね。

ーーでも、3回となると結構大変だったのでは?

福間 自分で登ろうとすればチャンスがあれば登れるけど、人さまのお子さんを預かって引率して無事に帰るというのは非常にハードでしたね。距離的なこともあるし、金銭的なこともあるので、3回以上はちょっと無理だな、ということで今は行けていません。でも県内の山を日帰りで年に2回~3回は行こうという「県内の山歩きの会」、それは続けています。以前と比べて子どもたちは忙しくて行けなくなってきたので、ご門徒のご婦人方が「山ガール」といって元気に行って下さってます(笑)。

思い出の共有で深まる仏縁

ーー子どもさんを中心に、とてもバラエティに富んだ活動をされていますね。

福間 たまたまここは三次の中でも子供が増えている珍しい地域なんです。病院や美術館、球場や公園、高速道のインターなど色んな公的設備が整っている地域なので、三次の周辺からこのあたりに住まわれる方が多いんです。学校の規模も私の息子が在学していたときと比べれば倍になっている。そういう意味からすると恵まれている状態といえますが、ただこれも全体からするとあと数年でしょうから、私としては大人数での活動は出来る範囲で続けながら、最終的には1つ1つの仏事、法事・通夜・葬儀を通じて、目の前の子どもさんにどこまで深く思い出が作れて、どこまで深く言葉のやり取り、思い出が共有できるかということに腹を据えておかなければいけないと思っています。

ーーおっしゃる通り、最も大事なことですね。

福間 なので小学生ぐらいまでのお子さんが法事・通夜で参ってきたときには絵本ですけど、中学生ぐらいになると絵本への興味も薄れるので、そういう若い人たちには質問攻めでやり取りをして、「ちょっと不思議なお坊さんだな」と思ってもらう、そういうことにチャレンジをしていますね。「また法事に行ったら質問される」って、そう思ってもらう(笑)。

ーーそれは困るかも(笑)。どんな質問をするのですか?

福間 法事や通夜では、その方の思い出を聞くんです。「どういう方でしたか?」って思い出を聞くと、案外出ますから。お寺としての自分からすると、その方の一部しか知らないわけですよ。「お寺さん」としてお付き合いして下さる顔しか知らない。だから「この人良い方だったな」と思っていても、家族からすると「エーッ?」ということがある(笑)。

ーーたしかにそうかもしれませんね(笑)

福間 でもその「エーッ?」という話を聞かないと、本当にこの人を知ったことにはならなくて。だから「生前は仏婦の会長してくださいまして…」とか「お寺の法座によくお参りしてくださいまして…」とかお話なさるご住職もあるんだけど、私はそれをちょっと止めてみようと。むしろ、「どんな方でしたか?」という話をこちらがたくさん聞かせてもらって、リアルな思い出をしゃべってもらう。すると「あ、しゃべって良いんだ。お坊さんが聞いてくれた」と。で、その人の語る思い出をみんなで共有するわけですから、それだけでも充分、その時、そのメンバーで、法事・通夜に参ったというリアルが残るかなと。

聞いてくれるから語れる言葉

ーー身内の方でも「その話は知らなかった」という人も・・・。

福間 そう、出てくるんですよ!それが良いんですよね。その方との思い出を語りながら涙を流す姿をみて、周りの方も「ああ、そうだったのか…」と。そんなリアルな宗教体験の場を私はもっと大事にしたいと思っていて。
あと、「聞くだけじゃ忘れてしまうから書いて下さい」って「思い出ノート」という白紙のプリントを渡すんです。「今晩、お通夜は長いから、みんなで書いてください」って。みんなで思い出をしゃべった上で書いてもらう。それを還骨の時に預かって読ませてもらうと、他の身内の方から「ああ、そうだったのか」と・・・。

ーーそれぞれの思い出を言葉にしていくんですね。

福間 しかも今ちょうどコロナで、大人数で集まれないじゃないですか。お通夜に行きたかったのに参れないという方がおられる。ならば、その方に電話して下さい。参りたかったけど参れなかった遠方の親戚に電話して下さい。実は住職に思い出を書き出せと言われたんだけど、どんな思い出がありますか?と電話で聞いて、それを書き出して下さい。すると「参りたかったけど参れなかった、でも親戚が私の思い出を聞いてくれた」ということになる。その方とのお別れに関わることができる。

ーー語ることで、つながることができる。

福間 その方も聞いてくれるから話せるわけで、聞かれなかったら思い出さない。しゃべったことでこちらも分かち合えるし、離れているけど「ああ、この人にはこんな思い出があったんだな」と、今度また出会った時につながりが深くなる。そういうやり取りをしてもらう。NHKの朝ドラでもありますけど、戦争体験とかその後の経験なんてなかなかしゃべれないわけで。でも、どこかでしゃべっておきたいなとか、孫には聞かせておきたいなとか、あるわけでね。そういうきっかけ作りをさせてもらうと、辛かったことも伝わるかなと。それも励みになるかなと。

やさしい笑顔が印象的な福間ご住職

ーー「言葉」に対するご住職の思いと、目の前の一人ひとりへのまなざし。今日は同じ僧侶として多くを学ばせていただきました。素晴らしいお話をありがとうございました。

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