「味わう」ということ 米田順昭(大寂山最禪寺)

 「味わう」とはおもしろい言葉であります。味そのものは変わらなくても、私が変われば「味わい」は変わっていくのです。

普通「味」と言えば食事の時に使います。私のお寺は大晦日の時は、お参り下さった方に少しでも温まって頂こうと毎年「おでん」を出しておりました。鍋物は便利でして、ご参詣の人数が分からなくても盛り方によって自由がきくからです。しかし、やはり足らなくては申し訳ないと思ってか、必ず多めに作っておりました。ですから余るのです。我が家の正月三が日はずーっとおでんでした。私が子どもの頃、そのおでんを食べるときは、何に箸がのびるかというと、すじ肉とかごぼ天とかで、大根やこんにゃくは箸で向こうへおいやっていました。すると母がそれを見て「野菜も食べなさい」と、私のお皿に野菜を入れるのです。私はそれを渋々食べておりました。しかし、今この歳になってそのおでんを食べるとしたら、真っ先に味のしみた大根は取ります。美味しいです。おでんの味は昔も今も変わってなくても、私が変われば「味わい」は変わります。嫌いだったものが美味しくなるのです。

 お念仏を慶ぶ方々は、この「味わう」と言うことを食べ物の時にだけ用いずに、「み教えを味わう」とか「人生を味わう」と使ってきました。その時は何ともないことであったり、辛くて嫌でしかなかった事が、ご聴聞を続けていく中、年数がたち、自らも歳を取ってみたときに、有難いことであった、尊いお育てだったと味わえる世界があるのでしょう。

 『渋柿の渋がそのまま甘みかな』というお言葉をお聞かせ頂きました。地域で呼び名は異りますが、秋頃になると家の軒先に吊して作る「干し柿」というものがあります。「吊し柿」ともいいますね。私の住んでいる所ですと、多くのお宅の軒下に吊してあります。白く粉を吹くと食べ頃で、食べると甘い味が口いっぱいに広がります。しかし、あの干し柿ははじめから甘い柿を吊すのではありません。渋柿を吊すのです。渋柿を吊して日光に当てるとあのような甘い干し柿になるのです。しかも、あれは渋柿の渋味をとってから甘味を入れるのではありません。渋柿にお日様の光が当たると、渋味がそのまま甘味に転じ変えられるのです。

 私たちの人生は渋柿かも知れません。お釈迦さまが「人生は苦なり」とおっしゃっておられるように、自分の思い通りにならないのが人生です。縁伴えば嫌でも出会わなければなりませんし、逆に縁つきれば嫌でも離れて行かなくてはなりません。その時、私たちの心にあるのは不平不満ばかりですね。しかし、阿弥陀さまは、その我が人生を必ず実りたらしめてみせるとはたらき続けて下さっております。その阿弥陀さまの光明に育てられたら、苦しみがなくなるのではなく、その中に尊い意味を味わうことができるというのです。これを仏教では「転ずる」といいます。苦しみ悲しみは辛いことではありますが、それは人生の邪魔ではありません。逆境によって順境のありがたみに気づけるように、苦しみ悲しみは、ご恩を味わうもとになるのです。そこに、我が人生全てが尊い意味を持ち、有難い一生であったと味わえていくことのできる世界があるのでしょう。

 私の法友の御尊父様が、癌を患われ数年前ご往生されました。四十九日法要のお返しとして、生前、御尊父様が書き残していた、次のような詩を送って下さいました。

老も死も避けることのできない 私の荷である
この荷は予想以上 厄介な重い荷のようである
しかし この荷が今まで見ることのできない世界を見せて下さる

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大寂山最禪寺 米田 順昭
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