待って下さる方がいる 米田順昭(大寂山最禪寺)

 初めての場所やあまり知らない所へ行くときは不安ですが、そこに、私を待って下さる方がいると安心します。もう二十年以上前になりますが、私が北九州のあるお寺のお盆参りのお手伝いをしていたときです。地域によれば、お盆の間だけで全てのご門徒様のお宅をお参りする習慣があります。ご門徒様の多いお寺となると、その時だけのお手伝いが必要となり、私は高校生の時から十年以上北九州のお寺にお手伝いに行っておりました。ある年のことです、私がお参りに伺うと、お家の玄関先で宅急便の方が「ごめんくださーい。お荷物届けに参りました。」と叫んでます。「あら、先客がいる。」と待ちましたが、「ごめんくださーい」と何度宅急便の方が叫んでもご当家の方は出てきません。

 これではいつになるか分からないなと思い、「お留守ですか?私が見てきますよ」とお家に上がりました。玄関から上がってすぐ奥の部屋へ向けて大声で「お寺です。おられますかー」と叫びますと、奥から「はーい」と声がします。台所の勝手口から外の畑に出ておられたのです。「ごめんなさい。お待たせしました」と奥さん。私は「あの、宅急便の方が先程からお待ちですので、どうぞそちらを」と言うと、「そうですか。どうも有難うございます」と玄関へ行き荷物を受け取られました。「判子持ってきます」とお家の方が奥へ行き、宅急便の方と私が二人っきりになったとき、突然「いいですねえ。お寺さんは」と宅急便の方が仰るのです。私が「何がですか」と尋ねると、「いや、お家の方が《どうぞ》も何も言ってないのに、勝手にお家に上がっていけていいですねえ。私らは、お家の方に怒られるといけませんから勝手に上がれないんですよ」と。その時私は、そんなものかなあ位しか思いませんでしたが、今になって考えると、お参りさせて頂くのは有難いことなんだなあと、しみじみ味わうようになりました。

 私も普段自坊のお参りをしますが、縁側から「おはようございます。最禪寺でーす」と大声を上げて返事がなかったら、勝手に仏間に上がります。お部屋の中からもう一度「お参りに来ましたー」。それでも返事がなかったら、忙しいときは部屋の電気をつけ、お蝋燭を灯して「最禪寺でーす。お参りに来ましたー」と叫ぶこともしばし。宅急便の方は、心配で家に入れませんでしたが、私は安心してお邪魔しています。安心とも思わないくらい自然にお参りに伺っています。この安心はどこからくるのか。決して私が思おうとしたわけではありません。それは「ようお参り下さいました。有難うございます。」と私を受けとめて待って下さるご門徒様がいて下さるからでありました。何しに来たと叱るわけでもなく、ようこそ、ようお参りして下さいましたと受け止めて下さる方がいる。それが、今の私の安心になるのです。

 親鸞聖人は「この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならず待ちまちまゐらせ候ふべし。」(『御消息』/『註釈版』七八五頁)と言われています。お浄土でこの私を待って下さっているのです。皆さまには、お浄土で待って下さっている方がいますか。お会いしたことの無い方や、人生を共に歩んだ方々が先にお浄土へ往って待って下さっているとすれば、これほどたのもしいものはございません。私もいずれ必ずこの境界を離れる時がきます。その時、このいのちが何処へ向かうのか。それは、親鸞聖人や先立った父や母、多くの親しい方々が待って下さっているお浄土であるとお聞かせ頂きましょう。それが、今の私の安心となって下さいます。お浄土はみんなで参らせて頂く世界です。自分の後に続く方の為にも語らせて頂きましょう。「私が先に往ったらお浄土で待ってるよ。あなたも安心して後からゆっくりおいで」と。

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大寂山最禪寺 米田 順昭
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